父、中村良治の原爆体験手記
中村良治(享年87歳)2020年8月死亡
被爆当時12歳 銭座国民学校6年
爆心地から1.2キロの浦上町で被爆
あの日の爆音は忘れない
ノーモアヒバクシャ(2015年8月9日発行に掲載された文章より抜粋)
1945年8月9日は朝から快晴だった。朝から空襲警報のサイレンが鳴り響き、みんなが防空壕へ走り込んだが、すぐ解除され、みな暑苦しい壕からでてきた。12歳だった私は、壕からでて、銭座国民学校の上にあった小高い山に蝉をとりにいったが、暑さのあまり引き上げ、上半身裸になって家の前で涼んでいた。
その時、アメリカの爆撃機「B-29」の音が「ぶーんぶーん」と聞こえてきた。また警報が鳴るかなと考えたとき、閃光が光り、家の下敷きとなった。闇の中で死を覚悟したが、母が足を引っ張って助け出してくれた。崩れた家から市街を見下ろすと、すべての家が破壊され、すべての道は瓦礫で埋もれていた。
銭座国民学校へ避難するよう言われ、重症の足をひきずってたどり着き、学校前の防空壕で一夜を明かした。夜、戸板に乗せられて運ばれる途中、長崎の町全体が真っ赤な炎に包まれているのを見た。聖徳寺の崖下で、赤ちんを塗るだけの治療を受け、翌日トラックで勝山国民学校に運ばれ、廊下で黒焦げの死体と一緒に数日を過ごした。
原爆投下の1ヶ月ほど前B29がチラシを撒いて行った。そこには「長崎、よい街、花の街、7月、8月灰の街」とあった。それが現実になるとは夢にも思わなかった。
家族の中で母親と兄、4人の妹たちが被爆した。父は兵隊に取られていた。末っ子の昭子は1歳だったが、被爆の時母親が落してしまい、そのまま亡くなった。
14日に、家族と一緒に、諫早市高来町の母の親戚の家に避難した。列車の中から、浦上川を見ると、大橋の下を真っ黒に焦げた死体が重なって流れていた。翌15日、田舎の人たちが泣いていた。天皇陛下のラジオ放送がで、日本が戦争に負けたという。その後、私は左足のすねと左肩の治療を受けることができた。
10月に自力で歩けるようになり、地元の学校に転入した。戦争中はできなかった勉強が、戦後にできるようになった。うれしかった。原爆のせいで家庭は貧しく、普通高校へは進学できなかった。三菱電機に就職して、働きながら諫早高校の夜学へ通い、高校卒業の資格を取った。その後も苦労を重ねたが、爆心地から1.2キロで被爆し大怪我をしたのに、原爆症に悩まされなかったのは、不思議な幸運だ。
三菱電機に45年勤め、1993年に退職した。退職後、糖尿病を治療しようとマラソンを始め、海外の大会にも出場するようになった。2001年11月、9.11のテロ直後のニューヨークマラソンに参加した。貿易センターのツインタワーは消えていた。ゴールして「ピース・フローム・ナガサキ」と声を上げると、世界から集まったランナーたちが歓迎して肩を組んでくれた。忘れられない思い出だ。自分なりの平和活動、平和ランになったと思っている。
<私の願い>
長崎の高校生たちが、1万人の署名を集めて国連に届け、核兵器廃絶をアピールする働きをスタートした。すばらしいことだ。国連の役割は、各国の共存共栄によって人類の平和を実現することだと思う。国連がリーダーシップをとって、世界の紛争をしずめ、平和を願う被爆者、世界中の人々の願いをかなえてほしい。